久里浜・155年後の7月14日にあたって…

またしても予告破り!でも今日はどうしても書きたいネタがあったので…。今日だけは『カモメの駅長さん』寄りから『黒船ポーハタン』寄りでお届けいたします。

さて、本日7月14日はペリー上陸記念日なんだそうです。黒船ネタについては色々自分なりに調べていたつもりだったんですが、記念日になっていたのは実は知りませんでした。でも多分この記念日も比較的新しいんだと思いますよ。実際この黒船事件はかなりの物議をかもしましたし、血も流れましたからね。
…という訳で1853年6月8日(旧暦。現代の暦では7月14日。)にペリーが率いるアメリカ海軍東インド艦隊が久里浜に上陸した日です。
去年久里浜のペリーが上陸した場所に行ってきたんですが、上陸した場所は今も砂浜が残っていてペリー公園とペリー記念館がありました。さすが縁の地だけあってとても貴重な展示の数々を見せていただいたのですが、一つ思ったのは教科書などで習うペリーと実際のペリーに違いがあること。
教科書ではとても冷酷で強行で非情なイメージで書かれているのですが、実際はとても部下思いで頭が切れる策士、そして何よりも家族をとても愛するパパでした。

初めて4隻の船を率いて上陸を果たしたペリー。1年後に再来航した際に日米和親条約を締結、箱館(現、函館)と下田を開港させ、その後を引き継ぐように来航したハリスが1858年に日米修好条約を締結させて、翌年には条約5港(函館、新潟、神戸、横浜、長崎の5港。ちなみにこの条約締結により下田が閉鎖された。)が開港、日本は世界にその重い扉を開いたわけです。

今年はペリーが日本に来航してから155年、日米修好通商条約締結150年の節目の年となります。
ここまで読んでいてピンと来た方もいるでしょう。そうです。今回の夏旅の長崎行きの計画はこの開国の足跡めぐりの一環でもあるんです。高校の修学旅行以来足を運ぶ機会に恵まれなかった長崎の地を今度はその開国の歴史と言う視点からもう一度しっかり見てみたい…そんな目的もあります。
去年は久里浜、横浜、そして本当に少ない時間でしたが神戸まで足を運ぶ事ができました。残すは長崎、新潟、函館、そして沖縄です。時間はかかるかもしれないけどいつかはすべての開国の足跡を巡れるといいなぁと思っています。その第2弾になりますね。普通の観光とは違った視点で長崎という町を巡ってみたいと思います。そして鉄分もしっかり補給してこなきゃね…。(笑)

ちょっと強引になりましたが夏旅のネタに引っ張ったところで次回からは本当に夏旅ネタに戻ろうと思います。約束できないけど…。(苦笑)

《おまけ》
久里浜&横浜散策の記事に興味を持ってくれた人がいたら2007年9月の記事を検索してみてください。何個かに分けて公開しています。ちなみに一番最初のページはこちらからどうぞ

《おまけのおまけ》
更新情報のマクパペットが今月のペリー記念日にちなんでアメリカ海軍提督風コスチュームになってます。しばらくこのままにしておきます。かわいがってやってください。


江戸の歴史を歩いてみよう(その2・佃島と石川島)

鉄砲洲通りから南高橋を渡り新日鉄ソリューションズのビルの横から隅田川テラスに入り霊岸島観測所の前を通り中央大橋を渡ります。ここはでは前回と同じ。

今日は土曜日、時間は16:30をちょっとまわった頃。そういえば…もしかしたら…急いでシティフロントタワーに向かいます。実は石川島資料館は毎週水曜日と土曜日だけしか開いていないんです。ただ開館時間まで覚えていなかった…。でもとりあえず行ってみる事に。
…でもね…やってなかった。っていうよりは入場時間が終わってた。17:00までは開いてるんだけど、最終入場は16:30までだった。

石川島資料館

悔しいので看板だけ写真とってみました。こんな感じなんだって。興味がある方は是非どうぞ!

さて、いつもならここで越中島側の隅田川テラスへ行ってしまうんですが今回は月島側のテラスへと足を運んでみました。実は一度も行ってない…。ここにも江戸時代の史跡があるんですよ。って行くまで知らなかったんですが…。(笑)

灯台のレプリカ

江戸時代の灯台、常夜灯です。これはただのオブジェじゃないんです。

佃島と石川島の灯台跡の解説・1

佃島と石川島の灯台跡の解説・2

ここは佃島と石川島の灯台跡なんだそうです。前回の隅田川散策で新川に江戸湊があったことを書きましたがこの佃島と石川島もちょっとした歴史があったようです。
解説…何とか大きくしたつもりでしたが文字が薄くて見難くなってしまっているので下にその文章を上げたいと思います。

『佃島は摂津国西成郡佃村』(現在の大阪市西淀川区佃)の漁師達が幕府の許可を得て築造した漁村である。

家康が1582年(天正10年)、京都から堺の地に遊んだ時、本能寺の変が伝えられ急遽踵を返して間道を通り抜け大阪に向かったが、出水のため途方にくれている時に佃村の庄屋孫衛門が多数の船を出して一行を助け、ここに徳川家と佃村漁民の間に固い絆が結ばれることとなった。

その後、家康が江戸に幕府を開くにあたり、佃村の漁師に対する思賞として彼らに幕府の御菜御用を命ずべく、老中安藤対馬守を通じてその出府を促し、1613年(慶長18年)には「網引御免証文」を与え、江戸近海において特権的に漁が出来るようになった。

1644年(正保元年)には現在の地に百間四方の土地を埋め立てて築造し、故郷摂津国の住吉神社を奉祀し、島の名を佃島と命名した。

石川島の灯台は1866年(慶応2年)、石川島人足寄場奉行清水純畸が隅田河口や品川沖航行の船舶の為、油絞りの益金を割き、人足の手で寄場南端に常夜灯を築かせたもので、六角二層の堂々たる灯台であった。
この完成を最も喜んだのは近在漁師だった。

このたび佃島公園を整備するにあたり、モニュメントとして灯台を建設するとともに、住時をしのぼうとするものである。

平成元年 3月』

その昔は大阪の漁民達の島だったんですね。当時の常夜灯は六角形の2層式だったようですが、残念ながら今のこれは四角です。どうせなら再現すればよかったのにね。それにしても以前名古屋の宮宿の七里の渡し跡にある常夜灯をご紹介しましたが、これが江戸時代の常夜灯の基本スタイルだったようですね。
この常夜灯は東京観光汽船の水上バス上からもはっきり見えますよ。ただちょっと興ざめするのがこのモニュメントの下が公衆便所!(笑)何でかな〜。

こちら側は庭園のように作られた空間や広々とした公園などなど都会のオアシスっぽい作りになってます。テラスには佃島の住人かな…お弁当広げてたり井戸端会議してたり地元コミュニティーになってますね。水上バスも結構通ります。

東京観光汽船水上バス『道灌』

東京観光汽船には歴史の人物の名前を冠した船が3隻存在します。赤い船の『竜馬』と黄色い船の『海舟』は以前ブログで紹介しましたが、その時見かけなかったもう1つがこの白い船の『道灌』です。しばらく見なかったからもしかしたらドック入ってたのか…ただ単に運悪く見かけなかっただけか。多分後者。

東京観光汽船水上バス『ユアータウン』

こちらは『ユアータウン』。そういえば街という言葉を関した船も多い。『マイタウン』、『アワータウン、『リバータウン』、『スーパーシティ』。最近ご無沙汰してるから乗りたいなぁ。

ここからはまた佃島のメインストリートへ戻り、相生橋から中の島公園経由で越中島へ。いつもならここで引き返すかJR越中島から電車に乗ってしまうんですが今回はその先、門前仲町まで行ってみます。自分的にとても気になる場所が出来たので…。その3へどうぞ!

ちなみに明治丸は今日も公開してませんでした。残念…。


江戸の歴史を歩いてみよう(その3・門前仲町のとある橋と大江戸線)

相生橋を渡りその道をずーっと歩くと門前仲町に入ります。東京メトロ東西線の茅場町のお隣の門前仲町。何の門前なの?といつも心の中で突っ込みいれてました。答えは富岡八幡宮の門前の町だからだそうですが、ここは他にも深谷不動堂をはじめ物凄く神社やお寺があるんです。だからいろんなところの門前としてもいいのかもしれない。とても賑やかな街です。

越中島から門前仲町に入ると間もなく1つの橋を渡ります。

門前仲町の黒船橋・1

黒船橋という名前の橋。自分の中で非常に興味をそそられる名前の橋(笑)です。

門前仲町の黒船橋・2

なんだか和風というか下町イメージを大切にしている橋ですね。

黒船橋上には船の形の花壇が…

端の歩道部分、車道に沿ってこんな船の形の花壇がたくさん置いてあります。

和船や屋形船の発着場

黒船橋がかかっているのは大横川の上なのですが、この川には船の発着場があります。これは江東区や東京海洋大学などの主催で運行している和船や屋形船の発着場となっています。江東区は隅田川をはじめ、水というものを観光の1つのカテゴリーとしていて江東区のHPには『水に恵まれた自然的特性をいかしながら「伝統と未来が息づく水彩都市・江東」を目指して、発展しています。』とかかれてます。確かに昔の伝統と近代の街並みが共存している街という観点ではむしろ丸の内や日本橋よりもこちらの方がしっくり来ますね。

さて、この黒船橋の『黒船』はペリー提督の黒船ではありません。それよりももう少しさかのぼり江戸時代初期に日本に漂着したリーフデ号という船を指しています。リーフデ号に乗船していたウィリアムアダムス(教科書では和名「三浦按針」として書かれている場合も多いですね。)が家康に呼ばれ江戸城に入城する際にリーフデ号がここに係留されたことから付いているんだそうです。江戸時代は基本的に外国から来た船を総称として黒船と呼んでいましたが、後のペリー提督の黒船来航があまりにも大きな事件となってしまったので現在は黒船=ペリー提督のイメージが強くなってしまっていますが、そういうことなんです。

ここからちょっとはなれたところに黒船稲荷神社という神社もあります。今回行く事ができなかったのですが、ちょっと面白い史跡でもあります。
皆さん怪談はお好きですか?江戸時代の夏の風物詩、江戸っ子の夏の娯楽とも言うべき怪談ですが、その中でも有名な『東海道四谷怪談』を書いた四代目鶴屋南北がその怪談を書き、亡くなった場所でもあります。怖い物好きな方は是非いってみてはいかがでしょう。

黒船橋を渡り都営大江戸線門前仲町駅から新宿へ向かい今回は終了です。これでGW中の隅田川散策レポは全部終了…長かった〜!

おまけで鉄ネタ少し。

都営大江戸線門前仲町駅駅標看板

都営大江戸線門前仲町駅

大江戸線はとても深いところを通っている+小さいトンネルな為とてもコンパクトにまとめられている駅が多いんですよね。それと意外と知られていないのがリニア動力ということ。浮いて走るだけがリニアじゃないぞ!(笑)下の写真でリニアのリアクションプレートが見えると思います。

失敗。だけど載せる(笑)

車両が来たから写真を撮ってみたら大失敗。でもスピード感あるんで載せてみた。

新宿サザンテラスの夜

旅の終着、新宿駅サザンテラスの夕刻です。まぁよく撮れたんじゃないかな?

あ、たべろぐではGW中のネタも上がってます。そちらもどうぞ!


春のうららの隅田川てくてく散歩(その2・江戸時代の街の歴史)

さて、謎が1つ溶けるとまた1つ謎が浮上する…なんとも不思議な街です。

鉄砲洲通りの看板

鉄砲洲通り

このポンプ場の前の通りは鉄砲洲通りといいます。

鍛冶橋通りの看板

鍛冶橋通り

ちなみにこの通りをポンプ場を背にして左手に歩くとすぐぶつかる大通りが鍛冶橋通りといいます。
鍛冶橋に鉄砲洲…この名前の由来って何だろう…。
ちなみにこのポンプ場の通りの地名は湊という町です。この湊地区を八丁堀駅に向かって歩くと入船という町に入ります。湊に入船…。海にまつわる地名なのにここにあるのは隅田川、つまり川です。なのになんで海にちなんだ名前?
次はこの4つの地名の謎を知りたくなりとりあえず鉄砲洲通りを歩いてみると近くにとても立派な門構えの神社が。

鉄砲洲稲荷神社・1

鉄砲洲稲荷神社・2

鉄砲洲稲荷神社の解説

鉄砲洲稲荷神社。この鎮守の神様の歴史は驚く程長く、平安時代までさかのぼります。元々は現在の日比谷のあたりにあったんだそうですが、江戸開府後に埋め立てが進み現在の位置に移ってきたんだそうでなんと今年は御鎮座1168年目なんだそうです。なんだか気が遠くなる話です。
ちょうど翌日から鉄砲洲稲荷の例大祭が行われるとの事で神社の方や地元の方々が忙しそうでした。

鉄砲洲稲荷神社・3

とても立派な神社です。願掛けの神様ですが、賽銭は500円以上とかかれてました。なるほど、やすっちいお願いは神様も相手にしてくれないのか…。自分は…もちろん500円で願掛けしてきました。

鉄砲洲稲荷神社・4

す組…よく時代劇でめ組って言うのを聞いたことがあるでしょ。これは江戸の町火消し、現在で言うところの消防団ってところです。ただ、昔は水を放水して火を消すということではなく周りの建物を壊し、延焼を防ぐという考え方だったので消防士…というよりはとび職人が多かったようです。め組はそんな町火消しの中の1つの組です。い組、ろ組、は組…とたくさんあったんです。

鉄砲洲稲荷神社・5

例大祭で使うのかな…。

鉄砲洲稲荷神社・6

りっぱな神輿ですね〜。

ここにいる人たちならきっと地元の人でここの事にも詳しいと思って思い切って声をかけてみることにしました。詳しくとまではいかなかったけど、謎を解く鍵をいくつか教えてもらう事ができました。

そもそもこの八丁堀や湊、入船を始め芝、日本橋浜町や呉服町、築地、日比谷のあたりまでの地域は徳川家康の命により神田山を崩し30年かけて埋め立てて出来た埋立地の上に出来た街なんだそうです。
そしてここはもともと海であり江戸湊があった場所で、鉄砲洲という名前の由来はこれという完全なものではないそうですが、1つはこのあたりの埋め立て地の形状が種子島と呼ばれた鉄砲にそっくりだったからという説、もう1つは幕府の鉄砲方として仕えた稲富氏と大筒を作って幕府に収めていた井上氏が大筒や鉄砲の試し撃ちをしていた場所だからという説が主な由来とされているんだとか。
海の近くだったということもそうですが、江戸時代には米塩酒薪炭を初めほとんどの物資が鐵砲洲の湊へ入ってきた為、船乗人の海上守護の神としてその筋の方々には有名なんだそうで、今でも参拝する方がたくさんいるんだそうです。
鉄砲洲という地名の由来はなんとなくわかりました。そこででてくるのが鍛冶橋という通りの名前。ネットでマップを見てみると鍛冶橋は東京駅八重洲口ちょうど八重洲富士屋ホテルの近所の交差点に鍛冶橋という地名だけが残っていて、そこからまっすぐとこの八丁堀エリア、鉄砲洲付近まで延びています。この鍛冶橋、今でこそ橋はないのですが、江戸時代は江戸城の外堀があり、鍛冶橋門があり、鍛冶橋がかかってました。現在の八重洲富士屋ホテルと八重洲ブックセンターの間の辺りには南鍛冶町という町があったんですが、それは幕府の鍛冶方棟梁高井伊織の拝領地があったことから名付けられたもの、そしてこの鍛冶門には鉄砲が10挺、持筒が2挺他数々の武器が備えらていて外様大名が一年ずつ交代で警備を担当していたようです。
なるほど、ここが鉄砲や大筒の試し撃ちの場所とだったとしてこの2つの歴史の解説を照らし合わせていくとやはりこのエリアは鉄砲にまつわる重要な場所だったということがわかってきます。
これが鉄砲洲と鍛冶橋の謎の鍵。

そしてもう1つ、湊、入船の謎はというと…。地元の方にある場所へ行けばその理由がわかるといわれました。

鉄砲洲通りの途中を曲がると1つの橋が見えてきました。

南高橋

南高橋の解説・1

南高橋の解説・2

南高橋(みなみたかばし)です。これもとても古い橋なんだって。(詳細は解説を読んでみてね。)橋を渡るとそこは新川地区。

徳船稲荷神社

徳船稲荷神社の解説・1

徳船稲荷神社の解説・2

この橋を渡った袂にまた稲荷神社が。徳船稲荷神社といいます。この神社の凄いところはご神体が徳川の遊船の舳を切って彫ったもの(といわれている。)という事でしょう。なんか見るとこ見るとこ凄いな…。そういえばこのあたりは本当に至る所に稲荷神社が存在します。

リバー通り看板

この徳船稲荷神社前の交差点の通りはリバー通り。ここの交差点にある新日鉄のビルの横になにやら公園のように開けた一角が…。そこでこんなものを発見しました。これこそが湊と入船の名前の謎を解く鍵となりました。

江戸湊の碑・1

江戸湊の碑・2

江戸湊の碑の解説

この黄色い錨の碑はここがかつて江戸湊だったということの証です。そう、ここは昔、本当に海だった場所なんです。しかも説明をよく見るとここは昭和11年までれっきとした港として機能していたんだそうです。
湊はそのままそこに港があったから。そして入船は船が入れますよという意味の言葉をそのまま地名したものが今まで残ったということ。なるほどね。江戸時代の名残なんだね。

新川エリアのテラスより佃大橋方面をのぞむ

驚きました。今では見渡す限り陸地が存在していて当たり前のようにビルが建っているのに…。

隅田川テラス新川エリア入り口

ここから隅田川テラスに入れます。隅田川沿いを歩いてみましょう。もう何度目になるかな…。隅田川ってなんだか好きです。ここからは隅田川散策編です。その3へどうぞ。

*今回の記事を書くに当たって下記のサイトを参考にさせていただきました。
鉄砲図稲荷神社公式HP・東京の地名の由来・江戸城/史跡めぐり・中央区HP
…ありがとうございました。皆さん素晴らしいですね。勉強になりました。


春のお台場・2(台場公園を歩いてみよう)

レインボーブリッジの遊歩道を降りるとそこはお台場海浜公園です。

お台場海浜公園

今いるところは高層マンションが立ち並ぶお台場の居住区。ここから台場公園へ行くルートと商業地区エリアに行くルートと分かれます。
そういえば最近台場公園も歩いてないな…。今回はせっかくなんで第三台場散策もしてみようと台場公園へ向かうことに。

第三台場へ続く松並木

第三台場へ向かう道は綺麗に舗装されていて松並木が続いています。近代的な街並みの中、ここだけ異空間。
てくてくと松並木を歩いていくとやがて第三台場への入口が見えてきました。

第三台場入口

この階段が唯一の陸地と台場の出入り口。早速上ってみましょう。

第三台場(台場公園)の看板・1

第三台場(台場公園)の看板・2

第三台場(台場公園)の看板・3

台場公園案内図。地図を見るといくつかの台場の施設跡があるようです。よ〜く読むとかまど場と砲台場は残念ながら江戸時代のものではないんだそうです。まずは窪地の部分に行って見ましょう。

弾薬庫跡

窪地の斜面はこうしていくつも穴が開いています。これは弾薬庫跡で、火薬や弾薬などをここに収納していたそうです。

かまど場のかまど跡

ここはかまど場の跡。写真に写っているこの意志の塊はかまどでしょうか…。ここで弾薬などを作っていたのでしょうか。それにしてもこれ、結構大きなものなんです。(これは江戸時代のものではないそうです。)

不明な遺跡

これも何かの跡だと思うのですが、地図には何の跡だか明記されていません。

陣屋跡

窪地のほぼ中央に位置するこれは陣屋の跡。この跡地の大きさから結構大きな陣屋が建っていたと思われます。

砲台の跡(レプリカ)・1

砲台の跡(レプリカ)・2

砲台の跡(レプリカ)・3

『お台場』という名前の本当の由来となった砲台場です。残念ながらこれも江戸時代のものではないようです。これに大砲がはめられていたわけです。ここには2基分しかありませんが当時はもう少し砲台の土台があったようです。この砲台で黒船を撃退しようとしていたのですが、実際は6つあったすべての砲台場について一度も火を噴くことはなかったそうです。

この第三台場は海の中にあるので夜になるとお台場と芝浦両方の眺望に港の風景まで存分に堪能できる場所なんです。いまではどちらかというと史跡というより地元の皆さんの憩いの場所となっています。商業エリアの場所からは少々離れてしまいますが、たまには海に浮かぶ島の中でゆっくりと過ごしてみませんか?こんな景色が楽しめますよ。

第三台場から見たレインボーブリッジ

第三台場から見たレインボーブリッジ

この時期は桜の時期なのでこんな光景も見れるんです。さらに夜景も素晴らしいのですが、ここあまり街灯がないので(…っていうかかなり暗いです。)気をつけてくださいね。

久しぶりにこうして台場散策が出来て楽しかったです。ここは自分の中で一番好きな場所です。みなさんも機会があったら是非どうぞ。

さて、第三台場を降りて商業エリアに戻る際に歩いたお台場海浜公園の写真があるので最後に乗せたいと思います。3へどうぞ。